横綱・日馬富士の引退という最も悲しい結果で幕引きとなった今回の暴力事件。
そんなに熱烈な相撲ファンではないものの、前職で親方や関取と何度か会食をさせていただいたこともあり、また、子どものころに柔道大会で戦った親方がいたり、柔道家が関取になったりしたこともあり、親近感をもって接してはいました。
なので、相撲界の問題と柔道界の問題を照らし合わせて考えることも多く、その中で最近、私の頭から離れない言葉があります。
それは、
品格。
そもそも、この言葉を思うときに一番先に出てくるのが
横綱の品格
私的には『格』を表す言葉の代表選手は、
風格。
であり、私の稚拙な感覚、経験だけかもしれませんが、風格に比べて品格という言葉をあまり口にしたり、耳にしたりすることは無いともいます。
これは、『品格が表に現れて、その人独特のあじわいやおもむきが出てくることが風格』であり、品格は表に表すものではなく、その人がその人の身分や程度に相応しい本質=品格だからではないのかと思います。
言葉を返せば、品格はその人が勝ち得た身分や程度を計る本質(持っていなければならないもの)であり、
そうなれば、日馬富士が取った行動は、業界の最高位として、心技体全てを兼ね備え、当たり前のことを当たり前にできるべき横綱として、その品格を著しく損なたこととして罰せられなければならなかったと思います。
とは言っても、私ももしかわいがっている後輩、もしくは部下が、人の話を聞かず、ましては注意を受けている当事者のくせに話の最中に携帯を取りいじりだしたら、間違いなく厳重注意し、最悪は手が出てしまったかもしれません。
でも、そこには、どこまでいっても相手のために、その人の未来を見据えて、愛と勇気をもって何とか相手に伝わるようにしなければならないこと、つまり、『叱る』ことであり、決して怒りと勢いで感情に任せた『怒る』になってはいけないという大前提、ルール(手は出してはいけないことも含めて)が絶対条件として存在します。
日馬富士の今回の行動は、『叱る』ではなく『怒る』だったと思います。横綱の品格を著しく損ねています。ただ、もし、貴ノ岩が、先輩が話をしているところにスマホをいじるような行為をしたのならまさしく彼にも相撲道を貫く『関取の品格』はなく、彼を指導している貴乃花親方の『親方の品格』も問われるべきであると思います。
巻頭と、上の写真は、元同僚が今から10年前に取材で撮った写真。10年前の2007年12月23日、立浪一門の連合稽古での白鵬との激しい稽古の様子です。FBにアップされていました。
『この時の地位は、白鵬が横綱、当時の四股名は安馬の日馬富士が関脇でした。2007年は白鵬が横綱に昇進した年で、自身初となる年間最多勝も受賞しています。一方の安馬は大関獲りを目指していた時期になります。羽目板に叩きつけられて悔しさをむき出しにする姿が印象に残っています』
一部報道では、今回の行動は日馬富士がこの白鵬を忖度して行ったものとあります。
16歳で来日しこれまで、何千回、何万回、悔しい思いをして手にした地位を一瞬のうちに失った今回の事件。たった一度の過ちの原因が忖度というなら、果たして情状酌量の余地はないものでしょうか?
最後に・・
先日のFBでもシェアした別の同僚のブログ。読んでいて涙が止まりませんでした。らなかった。本当に日馬富士の忖度だとしたら、彼が最後に見せた『横綱の品格』を私は一生忘れません。
https://news.yahoo.co.jp/byline/toedakeiji/20171129-00078716/
いまから、ここから、品格をモノにするため、まずは当たり前のことを当たり前にし続けます。
永瀬義規
永瀬社長
過日は本当にありがとうございました。
強い味方で大助かりでした。
六日に下見調査に伺うことになりました。
この度の日馬富士暴行事件、日馬富士の引退で決着がつきそうですが
私は日馬富士が最期まで貴ノ岩に謝罪しなかった所に横綱の風格を
感じました。
礼儀礼節のなっていない同じモンゴルから来た、後輩力士をモンゴル風に
教えただけのことで、貴ノ岩も謝りに来た。
自分と貴ノ岩との間は決着ついている。謝る必要がない。
あの引退会見を観ていて私はそう思いました。
理事会でも理事長の真ん前で、マフラーを首に巻き、踏ん反り返った
あの姿、元横綱かもしれないが、礼儀礼節が全くなっていない。
もう一度、フンドシ担ぎから出直せと言ってあげたいものです。
あれでは弟子に人間教育なんかできないでしょうし、弟子も可哀想です。
一番の被害者は貴ノ岩でしょう。
もうモンゴルに帰れないのではないでしょうか?
モンゴルの英雄を蹴落としたとモンゴルの国民はみているでしょう。
初場所も休むとの噂も流れて、そうすれば幕下陥落とのことです。
自分勝手な感想ですが、今回の事件をそんな風に観ております。