以前、ここでも書かせていただいたように、私の父は25歳の時に脱サラして仕出し弁当業を始めた、らしい。
らしい・・は、私が物心ついた時には、母親と一緒に夜中まで次の日の仕込みをして、朝3時には起きて黙々と弁当やおいなりさん、おむすびを作っている姿しか見せたことはなく、それは、私が小学3年生の時にお店を持ち、5年生の時には家を建て、中学、高校と本当に馬車馬のように働く背中しか見たことがないため、
そもそも、いつから? なんで? この仕事に着いたのかなどは聞く余地もなく、仕事というものはそんなものだと思いつつ、そんな親の苦労を横目で見つつ、自分自身は、
幼稚園でそろばん塾(当時は小学校に上がらないと受け入れてくれなかった)に入りたくて、お風呂で必死に九九を覚えて勝手に入塾したのを皮切りに、大学受験までとにかく好き勝手に自分がやりたいことをやりたいだけやっていました(毎日19時には家族全員が集合して夕食を食べる・・みたいな決まりはありましたが)。
ただ、思春期を迎えるころに、お弁当屋さんという職業になにか負い目があり、周りには『父は早稲田、母は日本女子を卒業、ただ、ワケあって今はお弁当屋さんだけどね』などと上っ面の話を一生懸命していたように覚えています。
そんな、私の好き勝手。(結局は父が死ぬまで)文句や苦言を言われた記憶はありませんが、ただ一度だけ、柔道推薦で大学進学を決めようと思った時に
「おまえ、大学は勉強でいくもの。早稲田に勉強で行けないのか?情けない。それならば、進学はやめてしまえ」
と人生の選択で唯一反対されました。
結局、「なにお~」と挑んだ早稲田受験に失敗し、浪人して中大に進学したのですが、これが私の人生のすべてを決定する出来事になろうとは思っても見ませんでした。
もう一つ、父の言葉で忘れられないものがあります。
それは、28歳の時、渡米を決意してそのことを父に話した時、
「ヨシノリ、世の中のほとんどの人は『いやあ、辛いこと、いやなことをしてもらって本当に申し訳ない。よく頑張ったね~』ってお給料をもらっているんだ。だから、好きなことでお給料をもらうことがどんなに幸せなことか、どんなに大変なことか、自覚しなければならないぞ」
との言葉。
プロスポーツ選手のセカンドステージ・・・。
何を甘えたこと言ってるんだ。そんなステージは用意してもらうものではなく、自分が創るもの、勝ち取るもの、という考えに変わりはありませんが、
昨夜の山梨文化ホール。自分の好きなこと、やりたいことを『できること』で表現している若者のパフォーマンスに感動し、一所懸命ハリセン(巻頭写真)で声援を送っている自分がいました。
そこには、間違いなく、自らの動きで、人の心を動かし、そこに対価が発生する。働いている姿がありました。
しかし、これを、信者を作る~儲けるスキームにして初めて、『飯を喰う』ということ。
職種を創るための大きな『壁』がここにはあるんですよね・・。
そして、ここから先が大変! でも、好きなことで飯を喰うんだから、それは覚悟の上だと思います。
今日は、この辺で失礼いたします。
あ、父がお弁当屋さんを始めた理由、父の亡くなった時に叔父さんに教えていただきました(前にも書きましが・・)。
「ヨシノリ、お前が生まれたからだよ」
いまから、ここから、まずはがむしゃらに働きましょう!!
世の中、みんな悩んでますね。。。
永瀬義規
お早うございます。
良いお話ですね、私は母親だけで育ちました。
父親がいればこんな感じかなと思います。
最後の「ヨシノリ、お前が生まれたからだよ」が印象的です。
どの親も家族のため子供のため頑張ると思います。
これかも「ひのまる社長」応援します。
横須賀大会、審判で行きますのでよろしくお願いいたします。
永瀬社長
素晴らしいお父さんですね。
私の父は私が10歳の時に亡くなりましたので、
あまり会話はなかったんです。
60歳を過ぎてから、分かったのは後継ぎと決めていた長男が
戦後亡くなり、自分が養子にもらわれてきた家の後継ぎが
いないことで、54歳の時に私を作っているのです。
私は54歳の時に孫が出来ましたから、親父の覚悟のほどが
わかりました。
有難いことです。
感謝合掌