1993年1月。
カタ、カタ、カタという音と共に、アメリカ・ダラス市の我が家に届いた1枚のFAX
そこに書いてあったのが、
出向命令。世界柔道選手権大会1995大会事務局次長
の一文でした。
『社長!勘弁してください。やっと、なんとかこちらでの仕事が形になって、アトランタ五輪組織委員会に日本人ではごく少数メンバーの一人に選ばれたところで、これから・・の時に、帰国はできません』
当時、私はフジ&トライオーシャンから出向としてアメリカのスポーツマーケッティング企業に赴任しており、日本からの新たな出向命令のFAXに対し、故・寺田社長に直談判の電話をかけました。
『いや・・、永瀬さん。これは、全柔連からのたってのお願いで・・・』
と寺田社長はいつもの通りの口調(部下に敬語で)ゆっくりと話し始めましたが、その時・・
『ナガセ~、何言ってるんだ。何のためにお前をアメリカに勉強させにいかせたと思ってるんだ!! 今度の世界選手権は、日本で47年ぶりの大会。お前の生きているうちに今後あるかどうかわからないんだ!! 今スグに帰って来~い』
と電話を替わった佐藤先生の一言で、有無を言わせず帰国となり、その2年後、なんとか周りに助けられ終了した世界柔道選手権。32歳でした。
それから、怒涛のようにあらゆる国際大会の事務方を任され、挙句に五輪もプレスアタッシェとして2大会経験。
もし、あの時の佐藤先生の一言がなかったら今の私は間違えなくありませんでした。
そして、その24年後。
2003年に続いて、私の生きているうちに2回目の世界柔道を迎えようとしています(笑)
選手データをみると、
1995年世界柔道以降に生まれた選手は、なんと10名(芳田選手は大会終了4日後!)。
そして、ひのまるキッズの卒業生は4名!!!今後、間違えなくその数は増えていくことでしょう!
私にとっては、ひのまるキッズ卒業生たちが、どういう形であれ、柔道のそばにいてくれればそれが一番の幸せですけどね・・・。
さあて、今日から8日間。皆さんで精一杯応援しましょう!!
いまから、ここから、頑張れニッポン!!!
あ、私も数日は会場をウロチョロしていますので、見かけたらお声かけください・・・。