いまから、ここから、ひのまる社長の独り言(その376:25年前のバカ息子の話)

20日に58歳になりました。

多くの皆さんからのお祝いメッセージ、ありがとうございました。

そして、23日は父親の命日でした。12年前、享年71歳でした。

ふと、

親父が58歳の時、私は何をしていたんだろう・・・。

と思い返してみました。

今から、25年前の1995年。

アメリカから帰国して2年後。幕張で開催された世界柔道選手権大会の事務局次長という重責を任せられ(このために帰国)まさに昼夜を問わず大会開催に没頭・・していました。確かに。

33歳でした。

自分自身が培った全てを大会成功に向けて注ぎ込み、翌年のアトランタ五輪日本選手団入りも打診され、まさに絶好調でした。調子ぶっこいていました。

ただ、今、振り返るとその時の父親に対してどういう感情を持っていたかというと、正直、もう終わった人・・というものだったように記憶しています。

当時、父はそれまでの事業のほとんどを整理して(私が継承しなかったこともあり)、小平の実家のそばにある、創業一号店のお弁当屋さんを母と二人で守り、静かに暮らしていました。

数カ月に一度、実家を訪れ、お店で仕込みをしている父親の姿を見て、早く引退させてゆっくりさせたい・・と口では言っていたものの、今から思えば、先ほど述べたように『もうその仕事は一段落してもいいんじゃないか』という(上から目線の)気持ちの方が強かったというのが本音でした。

58歳。

以前にも書きましたように、私の記憶の中では12時まで働き、2時に起きるという生活を続け二人の子供も育て上げた父。アメリカに遊びに来た時『定休日以外で休みを取ったのは初めてだね~』と母親とニコニコして語ってから数年後の父親の姿に、『まだまだ働き盛り』とは正直感じませんでした。

厨房で包丁を丁寧に研いでいる後ろ姿を見るたびに、

もう大丈夫だよ。やめていいんじゃない・・

と思っていました。

恥ずかしながら、当時はとにかく自分がこの世界を動かしているんだ!みたいな妄想にかかり、親の面倒は自分が全部見れると過信していました。それはその13年後の会社設立まで見事に続きました。父が亡くなったのはその年でした。

心臓で入院し、その時に発見された大動脈瘤の手術を受けて成功したものの、明日退院という日の前日の急逝。

母の話では、亡くなる日の前日、仕事の打ち合わせをしているときも『まもなく、退院だからその時に・・』という指示をしていたと聞きます。

一番信じられなかったのは、父、本人だったと思います。

息子に『もう終わった人』と思られてから13年間。その生活を一切変えることなく逝った父。

学生時代はベンチャーの走りのようなことをして羽振りの良かったものの、子供(私と妹)ができたことをきっかけに弁当屋を始め、前述したように働きづめで子供たちを育て上げた父。人生のほとんどを子供を養うために費やした父。

我々が巣立った後、どのような気持ちで働いていたのか、特に58歳から亡くなるまでの13年間、どういう風にモチベーションを保っていたのか、母も亡くなった今、それを聞くことはできませんでした。

しかし、先日、誕生日祝いの電話をしてくれた叔父(父の弟)にその話をしたとき、「馬鹿だなぁ、兄貴はお前の成長のことを話す時が何よりも幸せそうだった。姉さんも一緒。だから、お前がどう思おうと、いくつになろうと死ぬまでお前自身が兄貴たちの働くモチベーションだったんだよ」と言われました。

絶句でした。

58歳の私、まだまだ志半ばです。やり切っていません。

たとえその志を成し遂げられなくても、少なくても、後から来るものがそれを成し遂げられるようレールを敷いていく。それが、25年前、何もわからなかったバカ息子の親孝行だと思っています。

いまから、ここから。愚直に己を尽くすのみです。

長い文章失礼しました。

永瀬義規

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