ここだけの話ですが・・・。
と数人から連絡があったのが、数カ月前のこと。
愕然としました。
それから、連絡から、問い合わせに変わり、
メディアに記事が載ってからは、
お悔やみ(?)励ましに…。
一時期はお陰様で大同窓会のようになってしまいました。
柔道専門誌『近代柔道』休刊
もう一年くらい前、
近代柔道杯が無くなるという話を聞いた時。
かつて新入社員の私が編集長の故・根本さんと作り上げたこの大会だけは絶対に守り抜くと覚悟を決めた時は、それを感づいた恩師に
おい、もうコロナで何度か中止になっているのだからな・・。それに近柔が無くなるわけじゃないのだから、やり方はまだまだあるからな!!
と言われ、しばし冷静になったものの、
まさか、その元々の雑誌が無くなろうとは・・・
絶句でした。
ただ、
私の編集長経験は、25歳から28歳までのわずか4年弱。私の後の編集長が、8年、9年、そして最後の編集長が10年と長い経験者なのにも関わらず、私と、次に編集責任者となった林の二人が、本当にどんなに数えきれないほどの声をいただいたか・・。
それだけ、我々二人のことを育ててくれた強烈な媒体だったと、今になって改めて感じています。
近代柔道との思い出は、気持ちの整理がついて、少し落ち付いて、時期がきたらここで書いていこうと思っています。
実は、先週のここで書くつもりでしたが、思い出でいっぱいいっぱいになってしまってアップできなかったのが本当のところです。
本当に、本当に・・・
ありがとう近代柔道。
お疲れ様、ベースボール・マガジン社。
ところで、巻頭の最終号の表紙を飾った村尾三四郎選手。
全日本学生で死闘を演じた斉藤立選手と共に、ひのまるキッズ創成期で最高のパフォーマンスを披露してくれたチビッ子柔道家でした。
ある、運命も感じますね・・。
その事はおいおい・・。
いまから、ここから、さあて、前に進みます!!!
永瀬義規
永瀬様
本当に長い間、柔道界の為に尽力頂きありがとうございました。私の同期の根本晃一君も絶対君の頑張りに対し、大きな声で「ありがとう」と叫んでいるに違いありません。少しゆっくり休んで、又、新たな第一歩を踏み出して下さい。関山民男
関山さん
私が近代柔道編集部にいたのは28歳まで。その後40歳で会社には復帰して5年間いましたが、その時には近代柔道には直接的には関与していませんでした。
ただ、新入社員として根本さんと過ごした2年間は本当に勉強になり、実際、『上司』といえる人は今日まで彼しかいないと断言できるほどお世話になり、尊敬しています。
今回の休刊。
非常に残念ですが、それも時の流れだと思っています。
ただ、我々にできることはまだまだあると思っています。
天国の根本さんと会った時に『おまえ、よくやったよ!』って褒めてもらえるよう、愚直に己を盡していきます。
まだまだ、ここから!です。
引き続きご指導の程、よろしくお願いいたします。