雑誌『柔道』の巻頭言を読んで

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講道館で発行している月刊誌『柔道』6月号で、
早稲田大学の寒川恒夫教授が書かれている「巻頭言」
【技と徳:嘉納治五郎がめざした世界】が、
嘉納師範が柔道を通していかに人間育成をしようとしていたかを
とてもわかりやすく解説されていたので、ご紹介したいと思います。

嘉納師範は、生理学的によい身体をつくる柔道体育法と、
よい心を(知と徳とにおいて)育てる柔道修心法を兼ねて実践する中で
理想の青年が育つと信じ、柔道修心法徳育(精力善用・自他共栄はその代表)の
重要性を説くために盛んに講和を行っていました。

今日、我々が柔道として行っているのは柔道体育法が進化したもので、
そこでは、技や勝利への関心が中心になっています。
試合で勝ちたい、上手くなりたいと願うのは、
柔道を始める、また続けるためのごく自然な動機で、
このことには嘉納師範も気づいていました。
ただ、嘉納師範は競技化が導くであろう負の側面、
つまり人間教育とかい離した勝利至上主義を警戒していました。
それは、技術と徳とは別物であることを見抜いていたからでした。

嘉納師範は、「昔の武術を講じるものが、武士道を説いたのは、
本来は独立した、離れた道というものを技術に結びつけて説いたのである。
誰がみても分かる通り、何十年間竹刀で技術を練習しても、
投げ技や逆技の研究をしても、そういう練習や研究からは、
尊皇の精神も、道徳も発生してこない。
それでは昔の武士がなぜに武技にも長じ、武士道も心得ていたかというに、
それは武術を修むると同時に、そういう教えをとくに受けていたからである」
と語っています。

道場において技術を練習すれば、技術は修得できるでしょう。
そして、同時に、胆力や勇気など、そういう練習に伴って
自然に養われる精神力も身につきます。
でも、そういった練習によって道徳心がつくことはないのです。

柔道が強い選手は、あたかも人間的にも優れているかのように
思われがちですが、残念なことに、そんなことはないのです。
柔道の技術的な修行とともに、徳育、つまり心の修行を積むことで、
初めて人間的にも、優れた人になるのです。

そして、それこそが嘉納師範のめざした「柔道」だったのではないでしょうか。

寒川教授の巻頭言の締めは、
ドイツ柔道連盟が昇級昇段審査から競技成績を排除し、
柔道の技(受身、五教の技、固技、極の形など)について、
これらすべてをよく身につけているか、技術原理をよく説明できるか、
柔道の理念・歴史・指導法・マネジメント、またモラルコードについて
十分な知識を持っているかを段階的に問う試験に切り替えたという
トピックを紹介していました。

ドイツしかり、フランスしかり、
嘉納師範のめざした柔道は、
ヨーロッパの人たちのほうがはるかに理解し、
実践しようとしているような気さえしてしまいます。
日本も負けていられないですよね。

スポーツひのまるキッズ事務局 林

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