「おいおい、とんでもない女の子がいて、かなり強いらしいよ」
今から23年前の夏、女子柔道界に彗星のごとく現れた女子中学生。
当時、人気上昇中のマンガの主人公と重ねられるように報道されている彼女を、
実は冷ややかな目で見ていたのが、『近代柔道』編集長の私でした。
どんなにスポーツ紙が騒いでも専門雑誌のうちは実績が出てからしっかり載せ(てあげ)る・・・。
表面上はそんな感じで、専門誌のプライドと他社とは違うという意地を見せていましたが、実は、
彼女が過去に「読者のページ」に投稿していたイラストや小学生時代からの試合記録などを実は粛々と整理し、
虎視耽々と掲載の機会をうかがっているスケベ根性丸出しの自分がいました・・。
そしてその機会は、すぐにもやってきました。
その年の12月に開催された福岡国際女子で、彼女はあれよあれよという間に強豪をなぎ倒し、見事に優勝!
そこで、今までの態度とは一変してその掲載号の表紙出演をお願いしました。
〆切りの関係で取材&撮影は大会の翌日。正直、これまでの経緯からすんなりと取材を受けてくれるか心配でした・・。
福岡空港からタクシーでカメラマンのA氏と稽古をしている東福岡柔道教室に到着。道場の入り口は取材陣で一杯でした。
その中から「近柔さんですね。お待ちしていました!!」と声をかけてくれたのが、彼女のお母さんでした。
そして、お母さんに連れられて、まるでモーゼの十戒みたいに人混みがスーとわれた先にいたのが田村亮子本人。
全身に電気が走りました・・・。選手と会ってこんな経験をしたのは後にも先にもこの時だけです。
親子でニッコニコして迎えてくれ、無事表紙撮影は終了。入稿があったためお礼も半端ですぐにその場を立ち去り東京に戻りましたが、その後、「私は近柔に載るのが夢だったんです」と本人からお礼の手紙をいただいて、もうその時にはすっかりYAWARAちゃん
ファンに不覚にもなってしまっていた自分がいました。
それから、10年。
まさかオリンピックで金メダルをとるのにこんなにかかるとは思わなかったけど、ある意味、その区切りを「亮子が金メダルをとるまで」と身を投じた日本柔道界。シドニーでその目的を達成し、田村親子との交流は薄くなりましたが、この親子とかかわれたことで『親子の絆』の重要さを痛感することができ、今の自分があると思います。
そして、シドニーから13年目の今年、全柔連理事となって柔道界に戻ってきた彼女と今度はどんなふうにかかわれるか、楽しみでしかたがありません。
いまから、ここから・・、柔道界が新たなスタートを踏み出せるように、我々は基盤を支えます!!
永瀬 義規