こんばんは、ひのまるキッズ事務局の原です。
肥満児の私が、痩せるために小学2年生から始めた柔道は、気がついたら、負けることの悔しさ、勝つために努力をしなければいけないこと教えてくれました。
そして、自分の中で出来る限りの努力を重ねる過程で、素晴らしい仲間やライバルとの出会い。また、努力の質を高めるため、情報収集したり、考え方を変えてみたり試行錯誤を繰り返したこで自分自身が成長させてもらえたと感謝しています。
ただ、これだけの事であれば、柔道に限らず、他の競技でも経験出来ないことではありません。
柔道の素晴らしさというのは、やはり「精力善用」「自他共栄」、この2つの言葉が常に重石となって、柔道家の心にあるからだと思います。
そして、柔道の創始者である嘉納先生の存在(功績や思想)が、道しるべとして、大きな役割を成し続けているように感じます。
以下は戸川幸夫「嘉納治五郎」より
・・治五郎はこう語っている。「私はかってからだも弱く、非常な癇癪もちですぐにカッとなる性質であったが、柔術をやりはじめて、からだがじょうぶになるにつれ精神も落ち着いてきて自制力がいちじるしく強くなったことに気づいた。と同時に柔術の勝負の理屈が社会の他のことがらに応用できるものであること、また勝負の練習に付随する知的練習はなにごとにも応用しうる一種の貴重な練習であることを感ずるようになった。とはいっても従来の柔術や練習方法がそのままでよいとは思わなかった。だから相当のくふうを加えれば、たんなる武術としてだけではなく、知、徳、体の養成にまことに貴重な効果をあげうるにちがいない。今日の青年にもっとも必要なものは道徳であるから、これを柔術によって教える。つまり心と身の鍛錬の法としたい。さすればこの時世のなかでも柔術は受け入れられ、十分に伸びていける。
そもそも柔(やわら)とは力と力とを闘かわせ、技によって勝敗を決するものだから術というのがほんとうかもしれない。しかし自分はこれをたんに技の優劣だけでなく心を修行する法にまでもち込みたいと考えた。なぜ相手に負け、なぜ相手に勝つことができたかを追求してその原理を発見し、原理よりして術に及ぼし、その原理の道を人生に生かしたいと願ったのである。すなわち柔(やわら)とは相手の力に抵抗せず、衝突の力を避け、敵の力の乗ずべきに乗じてこれを倒す術である。これを心の作用に応用するときは、たとえば人と対論するのに相手が興奮し、いきり立ち、口角泡をとばして食ってかかってきた場合、こちらは静かにこれに対し、諄々-じゅんじゅん-として道理を説けば、ついには相手を納得させ、説得できるというもので、これは勝利である。
そこで私は従来の柔術という名称を避け、私がやるのは柔道であると命名した」