いまから、ここから、ひのまる社長の独り言(その19:貴様と俺とは同期の桜③)

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「おお、永瀬、永瀬、ちょっとこっちで話をしようぜ・・・・」

今から、28年前。

近代柔道編集部に配属された私が取材に行った全日本合宿で、いつもそうやって
私を呼びつけ(笑)、取材を受ける振りをして休んでいた世界チャンピオン・・・。

それがこの柔道家との出会いでした。

私が浪人したため、年齢は一緒でしたが学年は一つ上。前述したとおり私が4年生でやっとレギュラーになったころには、彼は大学を卒業して新日鉄に入り、日本のウイークポイントと言われていた95kg級で見事に世界一に輝いていた『天才』。

正直、最初に取材対象としては「なんて調子のいい、というか気さくなチャンピオンなんだろう。取材はしやすいからいいか・・」という感じでしたが、付き合っていくうちに、絶体絶命の膝の手術からの復活、とれなかった学生チャンピオンへの思い・・、実は無類の努力家で、人一倍負けん気の強いナイスガイにどんどん惹かれていきました。

そして、彼は2年後の世界選手権でも二連覇達成。当然、その翌年のソウル五輪でも優勝候補の筆頭でした。

ちょうど、ソウル五輪日本選手団出発の前日に挙げた私の結婚式に「永瀬ちょっと出席は無理だな。でも、ソウルででっかいプレゼントあげるからさ!幸せにね」と同僚の山本先輩(65kg級)と祝電を打ってくれた彼。

その数日後のソウルの体育館でフランスの選手にまさかの一本負けに屈し、メダルにも手が届かないシーンを目の当たりにするとは夢にも思いませんでした。

帰国し、「いやあ、負けちゃったよ。ごめんな」と言った時の何とも言えない彼の顔は一生忘れられません・・。

それから、翌年の世界選手権でも敗れ、きっぱりと引退した彼の特集を編集長として組んだのを最後にお互いの道を進むはず・・でしたが、3年後に同期となってしまいました!!

フジ&トライオーシャンに同期入社。

私は勉強のためアメリカに、彼は柔道部を作って自らも実業団体戦に出場し、同社を三年で一部に昇格させる立役者となりました。柔道部員の配属先はテニス界では知らない人がいないという名門クラブ『湯河原ラケットクラブ』。彼は副支配人として脚光を浴びるようになっていたことを、私はアメリカより聞いて、自分も負けてはいられないと勉強、そして仕事に励みました。

私が1995年に幕張世界柔道のために帰国した翌年、残念ながら会社は倒産し、そのあとは別々の道を歩むことになったのですが、その時に一緒だった仲間との『絆』は切れることはありません。

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そして、6年前、私が会社を立ち上げたときに一番最初に駆けつけてくれたのが彼でした。

もちろん、ひのまるキッズには最初から講師として参加。今では朝飛、青井先生と主に「ひのまるキッズ講師」の顔になっています。

「おまえは本当に生意気で仕方がないけど、どうしてもほっとけないんだよね。でも、お前本当に柔道好きだよね。俺なんか、嫌いだけどね」

顔を合わせるといつもそういう彼の言葉とは裏腹に、指導をしている彼の顔には人一倍柔道が大好きだと書かれており、そして、ついには柔道着ブランドを確立、先日、それとは別にアディダスの格闘関連商品の日本における総代理店としての新会社も立ち上げました。

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まさに、柔道界の中では異端児中の異端児。須貝等。

この孤高の天才柔道家、まずは柔道アパレルビジネス界で頂点をとれるかどうか、最後まで取材を続けていきたいと思います。

そして、自分自身も負けないで、一生彼と競い合っていきたいと思っています。

いまから、ここから、目指すは共にテッペンです!!!

永瀬 義規

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